力について・五島諭「緑の祠」寸感

/ 2017/01/25 /
10年か、もう少し以前になるかもしれない。この歌を読んで、とても驚いたことを覚えている。

 ラジカセの音量をMAXにしたことがない 秋風の最中に

 ラジカセでも、ステレオでも、テレビでもいい。ふだん、その音量を最大にすることはない。適度な、丁度良いところで使用しているからだ。しかしもっと大きな音量の設定は用意されている。操作すれば、もっとずっと大きな音がでる。
 これは単に経験の有無を語っているのではなく「そこにあるけれど使わない力」への思惟なんじゃないか、と思った。
 歌集には収録されていないが、五島さんはかつて「早稲田短歌」にこんな歌を残している。

 洋上を漂うブイに吹きつける風力8を僕はおもった

 自らが行使する、自らに及ぼされる力だけでなく、あまねく「力について」の思惟が五島さんの中心にあるのではないか。そんなことを思っていたら、このような歌群が収録されていた。

  擬態する蛾の内奥に閉じこめろ力にまつわる思考のすべて
  救われるということは何ベンチプレスする人々が窓から見える
  フォーク投げたくてボールを挟み込む指の力のようだよ鬱は
  最高の被写体という観念にこの写真機は壊れてしまう
  蟷螂の食べている蛾を蟷螂の視界へと飛び込ませた力
  挽き肉のかたまりに手を押し当てて手形をとっている夜明け前
  左手に持った爪切り いまのところ何かに届かないという感覚

一首目。まさに「力にまつわる思考」を、「擬態する蛾の内奥」に閉じこめろ、という。ただの蛾でなく、さらに擬態する蛾、と特定しているのが、抑圧的だ。蛾は己を守るために擬態するのだ、と教わった記憶が蘇る。二首目。トレーニングをする人を眺めながら「救い」についての問いが浮かぶ。反復運動も祈りも、どちらも体が為すことである。「強く」なることとは何なのか。三首目。鬱を言い当てる、絶妙な表現になっている。悲しいことが起きて落ち込む、といった「失点」でなく、むしろある目的のためにかかる負荷そのものが鬱なのだ。四首目。最高の被写体という「観念」にカメラが壊れる、という描写。至福を迎えてあとは壊れるのみ、ということなのか、身に余る緊張で壊れてしまう、ということなのか。幸福も不幸も、心にとっての負荷という意味では同じなのだ、というような話を思い出す。五首目。ひとはそれを運命と言ってしまうのだろう。食物連鎖とか、宿命とか。しかしそこに、蛾を突き動かした力があるのではないか、と詠んでいる。

余談になるが、俳句結社「鷹」の主宰・小川軽舟さんの俳句日記「掌をかざす」に「私は生まれてこのかた人を殴ったことがない。「鷹」の竹岡一郎君にそう言ったら信じがたい人生だという顔をされた」という記述があった。
小川軽舟さんは昭和36年生まれで、この日記を書いていた折(2014年)は53歳ということになる。53歳の日本人男性として、それが平均的なことなのかどうなのかはわからない(ちなみに竹岡一郎さんはふたつ年下の昭和38年生まれである)。時をさかのぼると、少なくとも今日現在より、かつて暴力としての力は、喧嘩だとか躾といったかたちで、すぐ手に届く場所にありふれていた。いつのまにか暴力の日常性は失われ、身近なものは水面下に没し、特殊性が強調され、距離があるもの、あるべきものとして扱われるようになっていった。

力即暴力、というわけではないが、「力」というものが総体として「他に影響を及ぼすもの」であることは確かで、五島さんの視点はかなり頻繁にそこに注がれているようだ。
それは何故なのか。それに関連するのかどうか、もうひとつ、視点の存在位置について、思うことがあった。

  写真を飾るという習慣の不思議さを考えながら星空を見る
  無とは何か想像できないのはぼくの過失だろうか 蝶の羽が汚い
  世界を創る努力を一時怠って風に乗るビニールを見ている
  日付けなど人為と思う草の葉をぽつぽつ渡っていく糸蜻蛉
  宇宙はとても暗いところで保たれる/帽子の上から頭に触れる
  白い蛾がたくさん窓にきてとまる 誕生会に呼ばれた兵士
  夕方は出口がとてもよく見えて自分のからだが嫌いな兵士
  ヒロインを言葉のなかに探そうとラジオを修理している兵士

最近読んだ本に髙橋和巳の「消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ」がある。精神科医の著者が、被虐待児を出自とした人がどのように世界を認識しているのか、症例を通して詳解している本で、著者はその中で「異邦人」という言葉を使っている。
人は誰もが社会的存在であり、そのために必要な要件として「感情と規範の共有」がある。虐待を経てそれらを得られなかった人は、他の人々と同じ世界に居ながら、別な世界を生きている=異邦人である、という表現である。

彼の語り口は、どこか社会から離れ、人々から離れ、浮き世を遠くに見ているようだった。彼はいつも社会という熱気の圏外にいて、外側から人々を観察し、自分自身さえもそこから眺めている。その不思議な人との距離感、奇妙な存在感が私を刺激した。
「消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ」髙橋和巳

この記述を引用した意図は、歌人の出自について詮索したりするものではない。引用部の「異邦人」に対しての印象が、さきにあげた歌群の、視点の置き方を考えるにあたって、参考になったからだ。
ふだん短歌を読み、解するときに前提とされている、「常識」とすら呼べないような共通理解、規範の外側から、これらの歌は発せられているように見えたからだ。

一首目。自宅の居間か、自室でもいい。家族の写った写真が飾ってある。自室に自分だけの顔写真を飾るような人は、いるだろうか。いずれ、そこに存在する人の写真が飾られていることが当然、という考えの外側にいる。写真が人物以外のものだったとして、やはりそれを飾って眺めるという行為は、「いつも目にしていたいから」という以外に、合理的な説明をするのは難しい。二首目と三首目はどちらも呆然としているように見える。無を想像できない「ぼく」も、「世界を創る努力を怠る」のも、そのようなことをしなければならないのだろうか?という疑問符を突きつける。四首目、「日付け」はたしかに人間の定めたひとつの基準にすぎない。草の葉に留まっては離れ、移動していく糸蜻蛉は「移り変わり」の喩でもある。このように認識を自然の中に着地させようとする歌も集中に散見する。その姿は自然賛歌というより、自らの状況とは無関係に刻々と変化する自然に、むしろ安堵しているように見える。
「兵士」が登場する歌も集中に多く登場するが、この「兵士」は五島さん自身の投影でもあるのかもしれない、と思いながら読んだ。「兵士」は戦闘にあたる、力を持つ存在でありながら、命令という「力」によって動かされる存在でもある。日常になじめていない「兵士」の描写は、ある種の緊張の比喩のようだな、とも感じた。

これらの歌は現代短歌が何気なく規範としているものの外側で書かれているように見える。その規範とは、倫理と言い換えてもいい。同じ時代を生きる者が守っている、共有している倫理。あたりまえとされる規範。その外側に立てば、おのずと奇を衒うのでもなく、達観するのでもなく、「ふつう」として執り行われていることが不可思議に見える。
規範そのものを批評し、疑問符をつきつける、ということも、もちろんできる。しかし五島さんの歌には、そうした批評性のようなものが希薄である。「写真を飾るという習慣の不思議さ」は根源的な問いのかたちで差し出されていて、具体例に接して違和感を覚えた、といったプロセスがない。また、習慣そのものを否定しているところもない。ただただ眺めている。それは別の天体から、地球という星を見て、そこで暮らしている人々を観察しているようですらある。

前段に戻って、「力」についての観察、考察も、規範の外側からのものだとしたら、合点がいく。蟷螂が蛾を食べることは珍しいことではない。しかし、食べられる蛾の側からすれば、なんらかの経過によって、食われてしまう位置に行ってしまったことになる。蟷螂と蛾のそのような「ありふれた偶然」を、もっと大外から見ると、彼らの行動というものの他に、何らかの力が働いたようにも感じられる。「緑の祠」の視座からは、あらゆる「力」が「見えて」しまうのかもしれない。

最後に、他に好きだった歌を挙げる。
今生で五島さんの歌集が読めて、嬉しかった。歌集を編むという行為もまた、あたりまえの規範というものから遠い、困難なことであるのだから。

  信じることの中にわずかに含まれる信じないこと 蛍光ペンを摑む
  零時とも二十四時とも言えてただ黒い大きい金庫のような
  ここだけの話にしてもいいけれど話の中のひと、仄青い
  薄明の坂の頂 胸郭に光を充たすように生きなよ
  「罪と罰」の「罪」ならわかる 蝶が舌を伸ばす決意のことならわかる
  結局は動かなくなる心、でも遭難のとき見るという青
  なぜ胸が痛むのだろう蜂蜜をシリアルにまぶした食べ物は


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